~避暑地の猫~
脳のリズムが奏でる永遠の時空
軽井沢/エッセイ

11)最終章Ⅰ-動機-

≪当記事は平成13年(2001年)に執筆、連載されていたエッセイです≫

※最終章に関しては11)から順にお読みください

最終章の目次
11)最終章Ⅰ-動機ー
12)最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13)最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14)最終章Ⅳ-生きる-

 
 
 ぼくの父方の祖父は帯広警察の柔道師範だった。北海道では名の知れた剛者だったらしい。戦後は東京で接骨院を開いた。父もまた同じ道を選び、現在は埼玉で開業している。

 さてぼく自身はと言うと、軽井沢のジャム屋で働くフリーターである。ぼくの稼ぎでは妻を養えないので、夫婦そろってアルバイト生活をしている。
 
 観光土産として手作りジャムを売る販売店が、町内に四店舗ある。そのうちの二店舗にぼくと妻がそれぞれ店長として勤めている。

 
 今年に入って早々に義母が病に倒れた。家に一人残された義父も脳梗塞後の体調がおもわしくない(昨年の九月号に記した)。妻は介護問題の渦中にいる。

 もはや高原の避暑地でのんびりとしているわけにはいかなくなった。ぼくたちはお互いの実家がある埼玉に戻ることにした。

 妻が介護に専心できる環境をつくるためには、ぼくが本来の仕事に戻って経済的な基盤を整えなければならない。

 というわけで、この軽井沢での時間が終わりに近づいている。 

 本連載も…、残念だが、今回を最後に筆を擱くことにした。

 この拙稿が活字になる頃には、ぼくはもうここにいない。浅間山が見えない街に暮らしている。

 
 この連載を依頼された当初は、軽井沢を軸に信州の自然や風土を描写しつつ、自分の来し方を披瀝するつもりだった。

 それまでの心の葛藤を描くことで、ぼくが自然と向き合う姿勢の意味を読者に伝えようと考えていた。

 しかし仮にもひとさまの目に触れる小品になる以上、感情にまかせて内情を発露するような劣悪な文章は残したくなかった。自分の過去を冷静に振り返り、熟成させる時間が必要だった。

 熟考の末、私事を語るには時期尚早であるという結論に達した。

 さりとて自然の風景だけを著しても、それと向き合う人間の心模様を織り交ぜなければ、観光ガイドと何ら変らないものになってしまう。

 ぼくの人生をさらけ出すことによってはじめて自然を見つめる眼を読者と分かち合うことができる。

 さてどうしたものか。しばらく思案投首の体であったが、結局あることを思いついた。

 過去の体験を具象することなく、身内に宿った内観哲学を、自然の描写中にさりげなく表現することはできないだろうかと。

 読者には「休憩所」などという方便を用いながら、その実ぼくは毎回実験的な文章を書き続けてきた。その結果、一月号でも述べた通り「居心地が悪い」文章になってしまった。

 実はぼくは「文筆業」への転身という白昼夢をみていた。それが本来の仕事を辞めて軽井沢へ来た真の理由であった。

 かつてぼくは、母方の祖母に

   「小説家になるべく勉強をしたい」

と吐露したことがあった。すると祖母は

   「乞食になるつもりか」

と、鬼のような形相でぼくを叱った。それから二年後、瞑目した祖母がぼくに残したおきみやげはこの季刊誌だった(祖母の紹介で本連載を任されることになった)。

 生前の祖母の言葉とは裏腹に、稚拙ながらも自らの文詞を表出する機会を得たのである。

  「あんなことを言っても、おばあちゃんはぼくの考えを認めてくれていたんだ」
 
 はじめはそう思っていたが、一年間の執筆を終えて再考してみると、どうやら祖母の真意は別にあったようだ。

  「これに懲りて、ものかきを目指すなんてばかな夢はあきらめなさい」

そんな声に、今のぼくは黙してうな垂れるしかない。         

              ◆
 
 さて、読者の皆さんとは今回を最後にお別れすることになるが、尻切れとんぼのまま杜絶してしまっては具合が悪い。

 やはり私心を露わにしてみようと思う。とは言っても正直なところ、いまだにぼくの頭は昏蒙に沈んだままである。

 このような状態でどこまで書き進められるものなのか、自分でも分からないが、もうしばらくお付き合い願いたいと思う。

              ◆

 昔日の青春時代、ぼくは都内の大学で建築の勉強をしていた。

 しかし運命に導かれるようにして、ぼくは祖父と父から授かった三代目の遺伝子を発現させる道を選んだ。大学を中退し、新たな学校に入り直し、そして国家資格を得た。

 冒頭の続きを記せば、ぼくもまた接骨師なのだ(今はジャム屋の店長だが、埼玉に戻った後は復職することになる)。
 

 ここで接骨師について、簡単に説明しておきたい。昔の人には「ほねつぎ」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。現在は厚生労働大臣の免許を受ける国家資格となっており、正式名称は柔道整復師である。

 戦前から戦後にかけては、今のように街角に整形外科がなく、運動器(骨・関節・筋肉など)のけがは外科が診ていた。しかし外科医のほとんどは「腹部内臓外科」が本業であり、運動器の専門家は少なかった。

 当時の人々のあいだでは「けがの専門家」と言えば、外科ではなく「ほねつぎ」というのが常識だった。
 
 昔の「ほねつぎ」すなわち接骨院には、骨折や脱臼、打ち身や捻挫といったけがをした患者さんで溢れかえっていた。

 接骨師は保存療法のスペシャリストなので、手術せずに骨を元通りにする技術、脱臼を入れる技術、固定する技術などに優れ、「接骨医」として市井の人々に認知されていた。

(一昔前の広辞苑には「接骨医」という言葉が載っていたが、医師以外の者が「医」という漢字を使ってはいけないという法律があるため、現代では「接骨医」という表現はNG)

 
 翻って現代、街角に整形外科の看板が目立つようになったが、整形外科はあくまでも外科。そのアイデンティティーは手術。大学の医局において学ぶべきは手術であり、保存療法ではない。
 

 けがの中にはもちろん手術が必要なものもあるが、保存的に治療されるケースのほうが圧倒的に多い。そういうものに対して専門的な技能を持つ接骨師と整形外科医がタッグを組むことで理想的な医療を提供することができる。

 ぼくは接骨師の資格を取得後、埼玉県内にある整形外科病院に入職した。そこは1日の来院者が400人近いところで、個人病院としては埼玉でも有数の規模だった。

 当時は常勤の数が不足していたこともあり、いきなり新米のぼくに出番がまわってきた。中学生の突き指だった。指先が骨折のために変形してしまっていた。

 指導役の主任に見守られていたとはいえ、たいそう面食らったことを覚えている。ぎこちない動作ながらも無事に骨の整復を終え、固定処置も無難に施すことができた。

 それ以来、新人としては異例なほどに多くの症例に携わり、一年後にはそれなりの戦力に数えられていた。

 しかしこうした環境のなか、ぼくはある種の緊張感に包まれていた。たとえるなら、ろくな訓練も受けずに最前線へ放り出された兵士のような心境…。

 ぼくはある誓いを胸に秘めた。

 「ぼくのような未熟な人間と出会ったがために不幸になったという患者さんを絶対につくってはならない

 最初は誰しも高潔な理想を抱くものだ。

 ただし年数を経てゆくと、真に患者さんのためにやっていることなのか、医療過誤を犯したくないという自己防衛のためにやっていることなのか、その辺が微妙に分からなくなる瞬間がある。

 何はともあれ、若かったぼくはこの信念にしたがって一心不乱に勉強し続けた。

 週の半分は真夜中まで病院に残り、治療データを記録し続けた。医学書や医学雑誌を買いあさり、必要とあらば、某私大医学部の図書館に通ったりもした。

 自分が治療にあたった骨折症例のすべてにおいて、そのレントゲン写真をノートに模写した。2次元画像のレントゲン写真をペンで描きなぞらえることで、頭の中で3次元の立体画像に置き換える訓練だった。

 院長と共に(ときには独りで)月に2、3度は整形外科の関連学会に足を運んだ。

 やがて8年が過ぎ、ぼくが理学療法科の主任をつとめていた頃、代診の医師と度々衝突するようになった。診断や治療方針を巡って、ある医師と侃侃諤諤と渡り合った際、結果的にこちらの言い分が正しかったのだが、そのとき、 

 「確かに君の力はそこらへんの医者より上かも知れない。足りないのは資格だけだな」

 と皮肉たっぷりに言われた。要するに「どれだけ実力があろうとも、君は医者ではない」と言われたのだ。

 その瞬間、ぼくは後頭部をハンマーで叩かれたような衝撃を感じた。まったく予期せぬ言葉だった。「医師と接骨師、どちらが上で、どちらが下」などといった発想は皆無だった。自分が与えられた環境で、やるべきことを精一杯やるだけで、資格の違いなど意識したこともなかった。

 しかし日本の医療界はピラミッドの頂点に医師が君臨し、その他の医療従事者は医師の下にあるべきという想念に凝り固まっていることを、後に知った。

 アメリカのようなチーム医療(医師とその他のメディカルスタッフが対等の関係)とは程遠い世界。あらゆる医療の権限を医師が独占する絶対的な法律(医師法)。その光と影を垣間見た思いだった。

 それ以来資格の壁にずいぶんと悩んだが、大学の医学部から再出発する気にはなれなかった。

 

 ぼくは悔し涙を流した経験が一切ない。“負けず嫌い”とは対極にある心性。勝った負けたの世界には無頓着。

 教育熱心な母の意向で国立の有名進学校に通っていたせいもあり、ぼくの周りは成績順位を一つでも上げるために勉強する子が多かった。

 しかし勝ち負け以外にモチベーションを持たないぼくにとって、学校の勉強は苦痛以外の何物でもなかった。授業中は教師の似顔絵を描いたり、ちぎった消しゴムを友達にぶつけたり…。

 中学2年の時、ある科目のテスト用紙を白紙のまま出して、先生の怒りを買ったことがある。その教師は答えを書かなかったことに怒ったのではなく、解答用紙の裏一面に描かれた絵(風景画)に立腹していた。今にして思えば、相当にふざけた学生だった。

 大学受験が終わったとき、本命の三校全敗という結果にもかかわらず「これでもう二度と受験勉強をしなくてすむ」と安堵した。悔しいという感情がまるで記憶に残っていないのである。

 だから、医療職として病院に赴任した自分が別人のように勉強熱心になったことは本当に驚きだった。

 学生時代にそのやる気があったなら…、と思わぬこともなかったが、しかし医学部受験を真剣に考えることで、自分の心の在り様をはっきりと覚知することができた。

 それは勝ち負けの問題というよりも、勉強の意義と時間的な距離にあった。受験勉強の場合その成果を享受するまで、すなわち社会に出て実務を経験するまで数年という時間差がある。

 それに対し、医療における勉強は時間差があまりない。努力の結果(知識と技術)がストレートに還元される。それがそのまま患者さんの笑顔に直結する。このリアリズムとダイナミズムこそが、ぼくを勉強へと追い立てた原動力のひとつであることに気づいた。

 大学に入るための勉強には実存への繋がりが薄い。そこにリアリティを感じる力がぼくにはないのだ。受験という儀式に確固たるモチベーションを持続させる力はないと悟った。

 同時に資格の苦悩は心の奥底に封印した。

 そうした日々にあって心身のレベルが落ち込むと、ややもすると惰性になりかけるときがあった。けれども、そんなときは子供の泣き声と涙がぼくを奮い立たせてくれた。

 骨折やけがの痛みに加えて、白衣の人に何をされるのだろうという不安や恐怖心から泣き叫ぶ声が、ぼくの心に痛いほど突き刺さってきた。
 

 この世の中で子供の涙ほど純粋なものはない、とぼくは思っている。彼らの眼から清水のように澄んだ雫がこぼれ落ちるさまを見ると、自分まで泣き出したくなるような切ない思いに駆られた。

 やがてそんな子供たちもギプスがはずれ、病院やスタッフにも慣れて、憎まれ口を叩きながらリハビリに通うようになる。

 そんな子供たちの姿を見かけると、とても心が和むのだった。彼や彼女らの笑顔が明日への活力となった。

最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-に続く

「軽井沢/エッセイ」-目次(リンク表示)

ミレニアムの夜明け
音楽療法
天明の大噴火
自然と五感と恋心
青天の霹靂
湯川の森-ヒグラシの調べ- 
湯川の森-精霊のウィンク-
コスモス畑
稚児池 
10 避暑地の猫
11 最終章Ⅰ-動機- 
12 最終章Ⅱ-痛みとプラセボ効果-
13 最終章Ⅲ-心と痛みの関係-
14 最終章Ⅳ-生きる-


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